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福克兰群岛防御:英国政策研究

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7
国 際 安 全 保 障 第4
5巻第 1号
[研究ノート]
フォークランド諸島の防衛をめぐる
イギリスの政策
篠崎正郎
はじめに
1
9
8
2年 4月から 6月にかけて、南大西洋のフォークランド諸島(アルゼ、ンチン
側で、はマルビナス諸島と呼称される)をめぐって、イギリスとアルゼンチンは
戦火を交えた。約 2ヶ月半にわたる紛争は、 907名の犠牲者を出し、イギリスの
勝利という形で終結した。
当時のイギリスは、経済的にも軍事的にもフォークランド諸島にさしたる利
害を有しておらず、この島をめく、、って賭けられたのはイギリスの名誉という側
面が大きかった。この点を指摘したのが、キニー (
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sK
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n
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) の『国益
と国家的名誉
フォークランド危機の外交』である。キニーは、国家的名誉に
とっての領土の重要性は増加したと論じ、イギリス・アルゼンチンが国家的名
誉をめぐって数世紀に及ぶゼロサム・ゲームを争ってきたと結論付けている 0)。
また、当時の首相であったサッチャー (
M
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c
h
e
r
) も、「イギリスの自
信にとっても、世界におけるイギリスの立場にとっても、フォークランド戦争
の意義は非常に大きかった…・・戦争の後、どこに行っても、イギリスの名声は
実態以上のものとなっていた J (2) と回顧している。
この紛争は、当時経済不調の最中にあったサッチャー内閣にとって倭倖とい
えるもので、あった。佐々木雄太は、サッチャーが「この戦争に勝利することに
よって、経済政策の失敗による国民の支持喪失を挽回することができた J (3) と
指摘している。また、イギリスにおけるフォークランド紛争研究の大家であ
るフリードマン (
S
i
rLawrenceFreedman) や、サッチャー外交の研究者である
シャープ (
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p
) は、「フォークランド要因 (
F
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sf
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)J により保
守党は 1
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3年 6月の総選挙において圧勝できたという(ヘ
一方、イギリス帝国史の観点からは、時代遅れとも言える植民地支配の継続
9
8
2
0
1
7年 6月
と(5)、帝国主義の噴出という側面が指摘される。木畑洋ーは、フォークランド
紛争の開戦に至った背景を考察し、「世界に君臨した帝国支配国民としての『帝
国意識』の名残りが、国民をフォークランド戦争支持にかりたてていった」と
論じる(引。
さらに、近年では公文書に依拠した実証研究も登場し始めている。その代表
巻は
は、フリード、マンによる公式史であろう(7)。これは 2巻から構成され、第 l
開戦に至る経緯を、第 2巻は戦争と対外政策を扱っており、いずれも網羅的な
記述となっている。本書はフォークランド紛争をめぐる主要論点にも回答を試
みるものでもあり、戦争の事前予知および抑止は不可能であったと結論づけ
ているフランクス報告書 (8)の立場を追認しているほか (9)、巡洋艦ベルグ、ラーノ
(
B
e
l
g
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a
n
o
) を封鎖海域外で撃沈したことがベルーの仲介する和平交渉を反故
にしたという議論について、真実ではないと主張している(10)。
ところで、興味深いのは現代の東アジアにおいてもこの紛争が注目されてい
L
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l
d
s
t
e
i
n
)によれば、
ることである。アメリカ海軍大学のゴールドスタイン (
現代中国の戦略家は台湾紛争へのアナロジーから、フォークランド紛争に強い
関心を抱いているという(1九中国の戦略家はアルゼンチンの対応について批
判的であり、イギリスが戦わないであろうと予測したこと、またアルゼ
ンチン
軍の能力を高く見積もりすぎたことが誤りだと評価している。一方、フォーク
ランド紛争で用いられた遠方展開能力、とりわけ空中給油機、長距離レーダー、
齢、関心を示してい
遠征型地上軍、原子力潜水艦、空母といったものに中国は 5
る
(
12)。
また 2014年には、日本の防衛省防衛研究所から『フォークランド戦争史~ 1
(3)
とし、う研究成果が出されている。同書は歴史研究であると同時に現代日本の政
策的関心に応えようとするものである。島岐部に対する攻撃への対応を念頭に、
1
1
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8
2年のフォークランド戦争の様相と、 2
1世紀の今日の戦争の様相、そして
アジア太平洋地域における戦略環境を短絡的に結び付けることは許されないも
のの、それでも、海上優勢及び航空優勢の重要性、統合運用の重要性、そして、
部隊の機動展開の必要性などについては、フォークランド戦争という歴史から
改めて学ぶべき事項は多々あるように思われる」と結論付けている。
このように、 1
9
8
2年のフォークランド紛争をめぐっては様々な観点からの議
9
8
2年の紛争そのも
論の蓄積がある。しかし、これまでの研究のほとんどは、 1
のに焦点を絞りすぎている。また、紛争の前史的局面に言及する場合でも、イ
ギリス・アルゼンチンの外交交渉に主眼が置かれ、軍事・安全保障の側面の扱
国 際 安 全 保 障 第4
5巻第 1号
9
9
いは限定的であり、十分な分析がなされているとは言えない。例えば、 1
9
7
7年
にアルゼンチンによる軍事行動が予期された際、イギリスがフォークランド諸
島近海に機動部隊を派遣した事例については、わずかしか言及されていない。
9
7
0年代後半にイギリスが経済不振の最中にありながら砕氷哨戒艇エン
また、 1
n
d
u
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n
c
e
) をフォークランド諸島に駐留させ続けてきた経
デ、ュランス (HMSE
緯についても、触れられることは少ない。
フォークランド紛争に先立ち、イギリスはどのような防衛政策を展開してい
9
7
0年代後半にフォークランド諸島へ
たのであろうか。本稿では、イギリスが 1
9
7
7年における機動部隊の派遣につい
の駐留をめぐって展開してきた政策と、 1
て、イギリス公文書館所蔵の政府文書を中心とする一次史料に基づき、実証的
な分析を試みる。そのうえで、これらの政策をイギリス外交史・軍事史のなか
で位置づけるとともに、その意義と特質について評価を行いたい。
1 フオークランド諸島への駐留をめぐる論争
(1)フオークランド諸島におけるイギリスの駐留軍
かつてイギリスは世界各地に植民地を擁するとともに、軍事力を展開させて
0世紀後半には急速な脱植民地化の進展のなかで各地域からの撤退を
きたが、 2
余儀なくされ、軍事拠点を徐々に喪失していった。しかし、一部の重要な地域
においては、今日でも駐留軍を配備し続けている。その lつがフォークランド
諸島である(川。イギリスによる駐留の背景には、アルゼンチンとの領有権問
8
3
3年以来占領してきたが、アル
題がある。イギリスはフォークランド諸島を 1
ゼンチンはこれに対して異を唱えており、イギリスはフォークランド防衛のた
めに駐留を続けてきたのである。
9
7
0年代にフォークランド諸島に駐留していたイギリス軍は小規
もっとも、 1
模であり、少人数の海兵隊と砕氷哨戒艇エンデ、ュランスのみであった。たと
えば 1
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6年には、わずか3
7名の海兵隊員しかいなかった。これは「仕掛け線
(
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r
e
)J と考えられており、たとえ少人数であれイギリス軍と対峠するこ
とは、深刻な事態に発展してしまうとアルゼンチン側が認識することを期待し
9
7
5年には重武装の 2
0
0名からなる守備隊を配備する案も出
ての駐留である。 1
されたが、宿泊所の不足から採用されなかった。また、工兵部隊を分遣すると
いう案についても、その予算をめぐって外務省・因坊省の見解が折り合わなかっ
た(lへ
1
0
0
2
0
1
7年 6月
エンデュランスは、 1968年にデンマークの商船を退役してからイギリス海軍
によって砕氷哨戒艇として調達されたものである。エンデ、ュランスの毎年の行
1月半ばから下旬頃にフォークランドを訪れ、科学調査や訓練を行い、
動は、 1
翌年の 3月から 4月頃にイギリスに帰還するというものであった。各種の文献に
おいてしばしばフォークランド「駐留」と言及されるが、実際に当該海域に滞
年のうち 5ヶ月未満であった(16)。エンデ、ュランスの武装は
在していたのは、 1
20ミリ砲のみであり、海兵守備隊 1
3人が搭乗し、 S
路Sl1ミサイルを搭載で、きる
へリコフプ。夕一 2機を積載していたにすぎ、なかつた(川
げ
1
川
7
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)
(
2
) 工ンデユランス退役案と対アルゼンチン交渉
1970年代のイギリスは経済不振に悩まされていた。第 2次ウィルソン (
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eReview)J によ
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n
) 労働党政権の下では、「防衛計画見直し (TheD
り防衛費が削減された。その一環として、エンデ、ュランスは 1975‑76年の配備
が終了すれば、退役することが決定されていた 1へ た だ し そ の こ と は 直 ち に
は公表されず、 1975年の『国防白書』には次のようにのみ記された。
われわれは香港、ジブラルタル、ベリーズ、フォークランド諸島といった
属領に部隊を維持し続けることとなった(問。
ただし、フォークランド諸島の領有権をめぐるイギリス=アルゼンチン聞の
交渉が順調に進展しなかったことから、撤退は延期されることになる。 1975
年 6月には、アルゼンチンの外相が交渉開始の条件としてサウス・ジョージア
島とサウス・サンドイツチ諸島酬の占領を黙認するよう要求していた。また、
アルゼンチン外相は有事計画の作成にも言及した。これはイギリスにとって到
a
l
l
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g
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a
n
) 外相はメイソ
底受け入れられないものであり、キャラハン(JamesC
ン (RoyMason) 国防相に対して、エンデュランス撤退発表を延期するよう要
望した。加えて、もしイギリス二アルゼンチン交渉の前提について合意に至ら
ない場合、 1976年 4月以降もエンデ、ュランスを現役にとどめることを検討する
よう要望した山。
メイソンはこうした要求には応じず、エンデュランスは次期任務の後に退役
させる考えであった。砕氷哨戒艇は北大西洋条約機構 (
N
A
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O
) への貢献には
不要なものであり、維持経費がかかるうえ、フォークランド防衛に対しでもほ
とんど寄与しなし、からであった。しかし、当面の問、エンデュランス退役につ
いては公式発表しないこととした (22)。ところが、 1976年 1月においても、イギ
AU
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国 際 安 全 保 障 第4
5巻 第 1号
リスニアルゼンチン交渉の目処は立っていなかった。アルゼンチン側は主権移
譲を強硬に主張しており、経済協力についての交渉に入ることさえ拒否してい
たのである。そのため、外務省のローランズ (EdwardRowlands) は退役を主
張する国防省側の事情に配慮、しつつも、 1977年 4月までエンデ、ュランスを現役
に留めることを要望した (23)。
(
3
) シヤクルトン事件の発生
その後、アルゼンチン経済の悪化に伴いフォークランドをめぐるアルゼンチ
ン政府の姿勢が硬化し(2‑11、 1
9
7
6年2月にはシヤクルトン事件が発生した。これ
は
、 2月4日にイギリス王立調査船シヤクルトン (RRSS
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n
) がフォーク
ランド付近の公海上においてアルゼンチンの駆逐艦から砲撃を受けた事件であ
る (25)。このとき、現場海域にはエンデュランスは居合わせておらず、ヘリコ
プターの派出が可能であったものの、シヤクルトンは独力でポート・スタンレー
(フォークランド諸島の中心都市)にまで帰還した。そのため、軍事的対峠は
回避されたものの、アルゼンチンにとって動員可能な海軍力に直面した場合に
おけるエンデ、ュランスの軍事能力の限界が強く意識されたのである。また、ア
ルゼンチンによるイギリス船舶に対するさらなる妨害、フォークランド諸島に
対する限定的な示威行動、エンデュランスへの攻撃などが懸念された (26)。
そのため、エンデ、ュランスの改修が計画された。それまでエンデ、ュランスに
搭載されていたヘリコプターの武装は SSl1であり、もともとは対戦車ミサイ
ルとして設計されたものであった。これに代えて、より射程が長く高性能な
ASl2ミサイルで武装したヘリコプターを搭載するという計画である。加えて、
0ミリ砲をより強力な兵器に代替することや、ロケット式の問光弾
火力の弱い 2
を装備し、夜間戦闘能力を向上させることが考案された。ただし、こうした改
修を経ても、アルゼ、ンチンの本格的攻撃に対抗しうる能力を備えることは不可
能であった (27)。
メイソンも、この事件によってエンデ、ュランスの軍事能力が限定的であるこ
とが証明されたと考えた。また、エンデュランスの維持は、国防省にとっては
予算の制約やドックヤードへの負担といった点からも困難なことであった。し
かしメイソンは、エンデュランスの維持が政治的に不可欠と外務省が考えるの
であれば、渋々ながら更なる配備を容認するとの考えを示した。ただし条件と
して、 1976‑77年の配備を発表すると同時に、 1977年 5月における退役について
2日の閣議において、
も明らかにすることを求めた刷。その後メイソンは、 2月 1
アルゼンチンは優れた海軍を有しており、もしそれが総動員された場合には空
1
0
2
2
0
1
7年 6月
母を含めた機動部隊でなければ対処しえないと報告している(目)。
一方でキャラハンは、エンデュランスは「政治的理由から保持することが不
可欠」であると確信しており、エンデュランス維持のために蔵相への働きかけ
についてメイソンを支援する意思があることを伝えた。ただし、エンデュラン
9
7
7年 5月に退役させることの発表については、フォークランド島民に対
スを 1
して同程度の安心感を提供しうる代替手段が見つかるまでは、実施すべきでで、な
いと主張した(叫
却
3
川
叫
0
)
フオ一クランド間題 ま
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は3月 l
目
8日の閣議でで、も論じられた。キャラハンはシヤク
ルトン事件などに触れ、アルゼンチンの不安定な政権が更なる行動に出るおそ
れもあるとの情勢認識を語った。その上で、長期的には経済協力やりースパッ
ク方式(31)による解決を主張した。メイソンはフォークランド、の防衛態勢につ
000
いて説明し、アルゼンチン海軍から島を防衛あるいは奪還するためには、 5,
人程度の旅団と空母アーク・ロイヤル (HMSA
r
kR
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O のエアカバーを含め
た海軍の支援が必要であると述べた。ただし、事前に聞かれた防衛・対外政策
委員会側での議論では、それほど大規模な戦力を NATOから転用するようなコ
ミットメントはすべきでないとし寸結論が提示されていた (33)。
9
7
6年4月にはキャラハンが首相に昇格し、外相
その後、内閣改造があり、 1
A
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yC
r
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) が就き、 9
月には国防相がメイソ
の後任にはクロスランド (
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y
) へと交代した。ムレーもまた、防衛予算に制
ンからムレー (
約が課せられる中で NATO関与とは無関係であり、かっフォークランド諸島の
安全保障になんら貢献しないエンデュランスを維持するための経費は認めるこ
9
7
7年 5月にエンデュランスを退役させることを決定した (34)。
とができず、 1
(
4
) アルゼンチン軍によるサウス・スーリー島への上陸
しかし、 1
9
7
7年には再びフォークランド問題が緊迫することになる。 1
月4日
、
エンデュランスからの報告があり、イギリス領であるサウス・スーリー島(サ
ウス・サンドイツチ諸島の一部)にアルゼンチン将兵が野営地を設立していた
ことが明らかになったのである (3へ こ の 出 来 事 を 踏 ま え て 、 ク ロ ス ラ ン ド 外
相はエンデ、ュランス駐留継続を主張した。エンデ、ュランスの軍事能力は限定的
であるが、そのプレゼンスは島民にとっては主権を維持しようというイギリス
政府の決意の象徴になっているという (36)。そして、撤退はアルゼンチンによ
る冒険的行動を助長しかねないというのである。そうしたことから、ローラン
ズ外務次官がフォークランド諸島およびアルゼンチンを訪問したことの結果を
報告するまでの問、エンデュランスを留めることを望んだのである(37)。
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5巻第 1号
1
0
3
この要求への回答に先立ち、国防省内ではエンデュランスの代替手段につい
て検討した形跡がある。エンデュランスと同程度の安心感をフォークランド島
a
)エンデュランスに搭乗する海兵隊員のフォー
民に提供しうる手段として、 (
b
)海軍艦艇の訪問が検討された。ま
クランド諸島の海兵守備隊への配備と、 (
a
)については、アルゼンチン側から挑発行為と受け取られるリスクがあっ
ず(
3名の隊員が増えたところでアルゼンチンの本格的攻撃から
た。また、わずか 1
b
)として、イギリス本土から艦艇
島を防衛することはできなかった。一方、 (
を単艦で派遣する場合は、当該艦艇が往復の移動時間も含めて 6週間ほど他の
任務から離れざるを得ず、また近傍を航行する艦隊から単艦を分遣する場合、
それによる運用能力の低下が懸念された。そのため、これらはエンデュランス
の配備に勝る選択肢とは評価されなかった (38)。ムレーは渋々ながら、エンデュ
ランスの退役を延期することに同意した (39)。
こうした中、 2月にクロスランドは病気により急死し、外相の座はオーウェ
ン (
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dUwen) が引き継いだ。オーウェンの立場も、前任者と同様であった。
2月下旬のローランズによるフォークランド諸島およびブエノスアイレス訪問
は順調に進行したものの、エンデュランスを撤退しうる状況が整っているとは
考えられないとしづ。エンテ守ユランスの撤退はフォークランド諸島および南大
西洋からのイギリス政府の撤退のしるしと見なされ、それは島氏の信頼喪失や
アルゼンチンの強硬姿勢を招くであろうという。そのため、来季においてもエ
ンデュランスを配備するよう要請したのである (40)。
ムレーは防衛予算のなかにエンデュランス配備のための割当金がないことに
触れ、そうした未計画の支出のために防衛予算のなかで帳尻を合わせるために
相当の困難があることを強調した。そのうえで、オーウェンの主張に同意し
たが、来季の派遣が完了した後の 1978年 5月には退役させるという点を強調し
た (4])。オーウェンはこの決定に感謝しつつも、アルゼンチンとの問で 7月中旬
に事務レベルでの交渉が、またその年の後半には閣僚級での会談が予定されて
いることに触れ、 1977‑78年以降にもエンデュランスを配備することが重要で
あると説いた。そして、外務省に諮ることなく退役を決定することのないよう
に念を押した (4へムレーはエンデュランス維持のための予算がないことを繰
り返し、オーウェンが財源を確保するよう蔵相を説得しない限り、 1978年 5月
に退役させざるを得ないと述べた(日)。
その後、アルゼンチンの交渉姿勢は硬化し、軍事行動が目立つようになった。
たとえば、ソ連・ブ、ルガリア船舶を砲撃・牟捕するようになっていた。こうし
1
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4
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1
7年 6
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た状況でのエンデュランス撤退は、イギリスが弱さを認めることであり、防衛
の決意の欠如と見なされかねなかった。そのため、オーウェンはアルゼンチン
との問でフォークランド問題が解決に至るまでの問、エンデュランスの保持は
必要であると論じた。さらに、南西大西洋にエンデーランスを配備することは、
南極における調査船も含めたイギリス人の航行とフォークランド諸島の領土的
一体性を防衛するために立案されたものであり、 1976年のシヤクルトン事件や
サウス・スーリー占領は、明らかに防衛上の要求があることを示しているとい
う(刊。ムレーは予算の制約に言及しながらも、エンデ、ュランスをとどめるべ
きという議論に同意した。そして、当面はエンデュランス退役を発表しないと
述べたのである (45)。
2 機動部隊の事前展開、 1
9
7
7年
(1)アルゼンチンの軍事的脅威
フォークランド諸島をめぐってイギリスはアルゼンチンとの間で、交渉を行っ
9
7
7年2月にローランズ外
ていたが、必ずしも順調には進展していなかった。 1
務次官がアルゼンチン外相と会談した際、アルゼンチンがサウス・スーリー島
に野営地を築いたことについては「純粋に科学的な j 活動であり、アルゼンチ
ンの主権確立のための材料としては用いない旨の保証を得ていた (16)。しかし、
8月までにアルゼンチンはこの合意を破棄すると述べていた。また、アルゼン
B
r
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チンの海軍提督が、サウス・ジョージア島にあるイギリス南極研究所 (
A
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i
cS
u
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v
e
y
:BAS) の要員を逮捕する可能性に言及したとの証拠もあった。
9月には、アルゼンチン海軍は自らが 2
0
0海里圏内と主張するところでソ連・ブ
ルガリア船舶を砲撃・全捕し始めた。
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)(
4
7
)
が1
1月 1Sに作
また、合同情報委員会(Jo
2月にニューヨークで予定されている会談が決裂し
成した見積もりによれば、 1
た場合や、アルゼンチンが主権移譲について進展がないと判断した場合におい
て、直接的な軍事行動を含む「より強引な (
f
o
r
c
e
f
uI)手段に訴えてくる高い
危険性」があるとしづ。最も可能性が高いのは、フォークランド諸島の周辺海
域においてイギリス船舶に対して何らかの行動がなされる事態であると推測さ
れていた。なお、アルゼンチン軍の能力として、海路または空路により l個 旅
団規模の部隊をフォークランド諸島に揚陸することが可能と見積もられてお
り、そうした可能性は完全には排除できないものの、可能性は低いと考えられ
国 際 安 全 保 障 第4
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1
0
5
ていた(制。
(
2
) 機動部隊の編成と派遣
オーウェンは、脆弱な立場から交渉せざるを得ない事態に陥ることを避け、
仮にアルゼンチンがイギリスの船舶を攻撃した場合や島に侵攻した場合に、イ
ギリスが準備していなかったと見なされるのを避けることが重要だと考えてい
2月のアルゼンチンとの交渉に際して、原
た(則。そのため、オーウェンは、 1
子力潜水艦 l隻の派遣を要請した。原潜は補給がなくとも長期間の滞在が可能
であり、必要なときに用いうる隠れたプレゼンスであった。しかし、国防省は
これを好ましく思わなかった(則。原潜 l隻のみでは、存在を顕示するか艦艇を
撃沈するかの選択しかなく、段階的な対応をとることができなし、からである。
V
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:
加えて、通信にも問題があった。当該海域では超長波 (
VLF) 受信装置を使用できず、潜航した状態で、の常時通信が不可能だ、ったので
ある。国防省は有形の抑止力たりうるものとしてフリゲート艇の派遣に前向き
で、あった。フリゲ一ト艦は運用上の柔軟性があるうえに、原潜による衛星通信
利用を可能とするためで、あつた(附
日
5
凶
1
ο
)
1
1月 l
日5日の防衛.対外政策委員会 (52)においてムレ一国防相がフォークラン
ド近海に派遣すべき部隊について検討するよう指示され、それを受けて提案さ
れたのはフリゲート艦2隻、原潜 1隻、補助舷からなる艦隊であった。これは「限
定的な侵攻に柔軟に対処」しうる艦隊であると説明された。水上艦は明示的に
存在感を示し、防空能力も含めた広範な対処能力を有しており、潜水艦は必要
な時まで存在を秘匿しておくことができるからであった刷。一方、オーウェ
ンはあからさまな派遣には反対で、あり、交渉中に水上艇を派遣することは「深
1月 1
8日においても原潜のみの派遣を
刻な出来事を引き起こしうる j と言い、 1
主張していた (51)。軍部においても、あからさまな派遣に対しては懸念があった。
対処すべき問題が解決しなかった場合、艦隊は一定期間現場に拘束されるから
であった。南大西洋における長期の駐留は、運用上不利になるものであった (55)。
1
1月2
1日に首相、蔵相、外相、国防相、国防参謀長のみで開催された会議に
おいて、フリゲート艦の存在を顕わにするとアルゼ、ンチンを刺激しかねず(刷、
また撤退が困難になりかねないことが指摘された。キャラハンは、フリゲート
∞
∞
,0
OO
海
艦 2隻と原潜の両方を派遣し、フリゲ一ト艦はフオ一クランド諸島から 1
里以遠(アルゼゼ、ンチンの捜索海域外)にとどめ、原潜はフオ一クランド諸島の
訂
5
叩
7
η
)
近海に潜航した状態ででSとどめることを決断した(臼印間
なお、イギリス外務省内ではアルゼンチンが海路のみならず空路を経由して
1
0
6
2
0
1
7年 6月
侵攻してくる可能性にも備えるべきとの指摘があったが側、合同情報委員会
の見積もりではアルゼ、ンチンのとりうる軍事行動はイギリス船舶の妨害である
可能性が高いこと、閣僚レベルではアルゼンチンを刺激することを回避したい
との意向があったことから、国防省は海軍のみの派遣が望ましいと考えてい
た (59)。また、実際問題としても、フォークランド諸島における飛行場は施設
が不十分であるうえ、最寄りの展開拠点、であるアセンション島(大西洋中央部
の孤島)からも距離があったため、空路により戦力を増強することは不可能で
あった。そのため、イギリス側のとりうる選択肢として海軍派遣が検討された
のである刷。
フリゲート艦はイギリス本土から、原潜はジブラルタルから出港した。オー
ウェンの意向により、情報漏洩を避けるために、乗員に対しては訓練であると
説明され、各艦の艦長のみが目的地と目的について知らされていた (61)
1
5ノッ
トで航行した場合、 1
2月 1
3日までに南大西洋に着くためには、 1
1月2
4日に出港
する必要があった。エンデュランスも 1
2月 1
3日までにフォークランド諸島に到
着するために、日程を再調整する必要があった(日)。フリゲート艦であるフィー
ビー (HMSP
h
o
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b
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)、アラクリティ (HMSA
l
a
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)、補助艦であるタンカーの
オルウェン (
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)、補給・弾薬船のリサージェント (
R
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e
n
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) はイギリ
スを 1
1月2
4日から 2
5日に出港し、原潜ドレッドノート (HMSDrea
出o
u
g
h
t
)は
1
1月26日にジブ、ラルタルを出港し、途中で合流することとなった (63)。
艦隊の使命は、「アルゼンチンの侵攻を抑止ないしはそれに対処し、イギリ
ス人の生命と財産を保護するために、フォークランド諸島および付属の島の海
域にプレゼンスを確立すること J(刊であった。もし会談がうまくし、かなかっ
たときは、ローランズはアルゼンチン側に対してこの艦隊の存在を告げ、軍事
的冒険を抑止するという選択肢を持つことになった。アメリカには原潜の移動
を通知したが、最終的な目的地は告げなかった。ただキャラハンは、米ソがい
ずれこの艦隊を探知するであろうし、それがアルゼンチンに通知されても問
題ではないと考えていた。そのため、あえてオールドフィールド (
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O
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l
d
) 秘密情報部長官に機動部隊派遣について話し、これがアメリカを通
じてアルゼンチン側に伝えられるよう期待したのである (65)。
なお、アルゼンチンがこの艦隊派遣を知り得ていたかどうか、またそのこと
がアルゼンチンの行動に影響を及ぼしたかどうかについては、不明である。こ
の艦隊派遣の問、アルゼンチンの活動を監視するための特別な措置が取られた
が、何ら特異事象は確認されていない。ただ、後に 1992年のインタビ、ュ一番組
国 際 安 全 保 障 第4
5巻第 1号
1
0
7
において、 1977年当時のアルゼ、ンチン海軍の艦隊司令官であったアナヤ(Jo
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g
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uanJ
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eLombardo) の会話が
Anaya) と潜水艦隊司令官で、あったロンパルド(J
紹介されている。アナヤがロンパルドに対して、ドイツの新型ディーゼ、ル潜水
艦はイギリスの原潜を探知・攻撃しうるかどうかを尋ねた際、ロンパルドは明
確に「否 J と返答し、それにより侵攻計画は反故になったという (66)
(
3
) 交戦規定をめぐる議論
1977年 の 艦 隊 派 遣 で は 交 戦 規 定 (
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sofEngagement: ROE) と封鎖海域
(Exc
1
u
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nZone) について検討がなされたという点にも、言及の必要があろう。
キャラハンの指示により、交戦規定は外務省と国防省が共同で作成し、閣僚レ
ベルで承認を受けることとなった (67)。オーウェンは後に議会において、「もし
アルゼンチンの艦艇がフォークランド諸島の 50海里以内に入り、敵対的意図を
示したと思われる場合には、潜水艦は攻撃をすることとなっていた j 附こと
を明らかにした。ただし、実際には攻撃するのは 50海里で、はなかった。交戦規
定では、アルゼンチンの軍用艦および軍用機に対して無害通航権の無いことを
警告したうえで、「ひとたびアルゼンチン軍が領海内およびその上空に入った
場合、それを排除するために最小限の武力を使用すべき」ことと、「発見時に
すでにアルゼンチン軍が領海内およびその上空に所在する場合、武力行使前の
6
印9
引
附
)
警告は省略すべき」ことを規定していた(側
交戦規定の中でで、議論になつた封鎖海域について、当初、国防省はフォークラ
ンド諸島から 25海里を主張していた。ここで言われる封鎖海域とは、アルゼ
ンチン軍を排除するためにイギリス軍が武力を行使しうるとされた海域であ
る (7へ こ れ に 対 し て 、 オ ー ウ ェ ン は 100海里以遠から警告を開始することを主
張した。これについては、外務省の法務官が公海自由の原則に抵触しかねない
と指摘した。そのため妥協として、危機が迫った場合にフォークランド諸島の
領海をそれまでの 3海里から 12海里に拡大すること、フォークランド諸島から
50海里以内に入ったアルゼンチンの軍用艦および軍用機に対しては所属を明ら
かにし、意図を述べるよう要求する旨をアルゼンチンに通知することがいった
んは提案された (
7
。
)
1
ただし、この封鎖海域という考え方は退けられ、識別線(Id
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)(72)
とし、う概念に代替された。識別線とし、う概念は、アメリカの防空識別圏 (
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nZone:ADIZ) を前例としたものである(口)。外務省の法務
官によれば、接続水域においては安全保障上の権利は認められていないため、
封鎖海域という考え方は成立しえないが、識別線という概念であれば、自衛権
1
0
8
2
0
1
7年 6月
の効果的な行使のための緊急措置として正当化しうるという。そして、もしア
ルゼンチン軍が呼びかけに応じない場合
2海里以内に
敵意があると見なして 1
入った時点で行動を阻止することができるとされたのである。識別線の適法性
を裏付けるような国家実行の例は見出されないものの、現代の海軍兵器の射程
に鑑みると、国際法上、正当化しうると理解された (7ヘ ま た 、 フ ォ ー ク ラ ン
ド諸島の領海の拡大が必要となった場合には、外務省の指示により現地のハン
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仕
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) 総督が宣言することとなつた(川
花
7
削
剖
5
)
ト(
(
4
心)機動部隊の撤収
機動部隊のうち、原潜は 1
2月 1
2日からアルゼンチン軍のフォークランド諸島
隻と補助艦2
隻
への海上接近について秘密裏に哨戒を開始した。フリゲート艦2
は
、1
2月 1
3日にはフォークランド諸島の北東約 1
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0
0海里の「待機海域 (
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)J についていた。その問、アルゼンチンの特異な軍事行動の兆候は確認
2月 1
3日から 1
5Aにかけての交渉では、ローランズはアル
されなかった (76) 1
ゼンチンとフォークランド島民を交渉の枠内にとどめ、対立を回避したことで
2月 1
6日にオーウェンは
すぐれた成果を残したと評価された(77)。そのため、 1
ムレーに対して機動部隊の撤収を打診した。その際、機動部隊の行動について
は引き続き秘匿することを要請した。公表した場合、アルゼンチンを刺激した
り、将来においてアルゼンチン側も当該海域に機動部隊を展開することを助長
しかねないためである (7H)。ムレーもこれに同意し、機動部隊はマデイラ諸島(モ
ロッコ西岸沖)を経由して帰還させることにより、南大西洋が目的地であった
ことを隠蔽することとした(7へこうして、機動部隊は 1
2月 2
0日頃から引き揚
げられた(制。
おわりに
こうして、イギリスは 1
9
7
0年代後半において、アルゼンチンとの交渉の難航
やフォークランド諸島に対する様々な危機に直面する中で、フォークランド諸
島への駐留軍の維持と機動部隊の派遣という政策を選択することとなった。こ
れらは、 NATOへの関与を中心に据える当時のイギリス防衛政策からの逸脱と
9
6
8年 1
月にイギリスが「スエズ以東」からの撤退を宣
言えるものであった。 1
言した後、その年の夏に刊行された『防衛政策の追加声明』ではヨーロッパ防
衛に最上の優先順位が付与されていた (81)。また、 1
9
7
4
‑
7
5年の「防衛計画見直し J
において、ヨーロッパ域外の駐留軍と遠方展開能力はさらに縮小された。そう
国 際 安 全 保 障 第4
5巻第 1号
1
0
9
した時代にあって、ウィルソン・キャラハン労働党政権はイギリス本土から遠
く離れたフォークランド諸島に対してあえて軍事的関与を継続しようとしたの
である。
9
7
9年に成立したサッチャ一保守党政権には引き継
ただし、こうした政策は 1
がれることはなかった。緊縮財政を推進していたサッチャ一政権は、防衛費の
9
8
1年に「ノット・レビュー」を実施した。この改革を主導し
削減を意図して 1
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) 国防相は、主に海軍の水上艦を削減することを模索し、
たノット(Jo
エンデ、ユランスを 1982年に退役させることとしたのである(問。このとき、キヤ
リントン (
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) 外相は、エンデュランスはフォークランド諸
島において「政治的にも軍事的にも死活的な役割を果たしている Jため、アル
ゼンチンとの交渉が決着するまでは現行のプレゼンスを維持すべきであると主
9
8
1年 6月8日の防衛・対外政策委員会において、エンデュ
張した(制。しかし、 1
ランスの退役は原案どおり承認されたのである (84)。
また、 1
9
8
2年4月のフォークランド紛争に先立ち、機動部隊の事前展開がな
されることはなかった。アルゼンチン軍がフォークランド諸島に上陸したのは
4月2日の早朝で、あった。これを受けてサッチャー内閣が機動部隊の派遣を決定
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)、インピン
したのが同日夜であり (85) 実際に空母ノ¥ーミーズ (HMSH
シブツレ (HMSI
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) に率いられた空母戦闘部隊がポーツマスを出港した
のは 4月5日の朝で、あった。
こうした労働党・保守党の政策の対照性を指して、キャラハンは回顧録で次
のように述べている。
1974‑9年の労働党政権と 1
9
7
9
‑
8
3年の保守党政権は、ともにフォークラン
ド諸島をめぐってアルゼンチンとの関係において同様の問題に直面した。
歴史の評決は、労働党政権は平和を守り、保守党政権は戦争に勝利したと
いうものであった (86)
それでは、フォークランド諸島における駐留軍と機動部隊の派遣は、どのよ
うに評価すべきであろうか。まず考察すべきは砕氷哨戒艇エンデ、ュランスの評
)
7
価についてである。エンデュランスの軍事的能力は限定的であったものの (8、
イギリス政府にとっては、当時進行中であったアルゼンチンとの交渉のなかで、
政治的メッセージとしての重要性を帯びていると考えられたのである。すなわ
ち、エンデ、ュランスを当該海域に留めることが、フォークランド島民に対して
1
1
0
2
0
1
7年 6月
もアルゼンチンに対しでも、イギリスの関与の決意を示すシンボルだ、と見なさ
れていたのである。アルゼンチンの在外公館からも、「その撤退は、フォーク
ランド諸島からのイギリスの撤退のしるしであるとアルゼンチンに解釈される
9
8
1年のエンデ、ュランス退役決定は、本来
であろう」酬と報告されている。 1
は経済的理由からなされたものであるが、アルゼンチン外交筋からは意図的な
政治的ジェスチャーと解釈されたのである(田)。
また、フォークランド諸島における少人数の海兵隊も、アルゼンチン側の攻
9
8
2年4
月2日にアルゼンチン
撃を酵踏させる要因になっていたと考えられる。 1
軍がフォークランド諸島に上陸した際、兵力では圧倒的に優位であったにも関
名、負傷者3
名)が出たにもかかわらず、イ
わらず、また自軍に死傷者(死者 1
ギリス兵を殺傷することはなかった。おそらくはイギリスが反攻してくるリス
クを念頭に置いたうえでの意識的な行動であろう。すなわち、少人数の駐留に
よる「仕掛け線 J としての役割は機能していたのである。フォークランド諸島
への駐留軍の維持は、必ずしも惰性によるのではなく、本稿で見たように危機
や情勢の変化が起こるたびに閣僚レベルで検討・判断されてきたことがわかる。
9
7
7年の機動部隊派遣はどのように意義づけられるのだろうか。キャ
次に、 1
9
8
2年のフォークランド紛争勃発の際、
ラハンをはじめとする労働党首脳は、 1
9
7
7年には危機に先立つて機動部隊を
この派遣の意義を強調した。すなわち、 1
9
8
2年で、はその措置を怠ったために武
派遣したがゆえに紛争を抑止しえたが、 1
力紛争にエスカレートし、戦死者を出すことになってしまったという議論であ
る。キャラハンは次のように述べる。
フォークランド戦争は不要であった。なぜなら、もし政府が時宜にかなっ
た行動をとっていれば、アルゼンチンの軍事政権は侵攻しなかったからで
ある (901
1
9
7
7年の艦隊派遣が抑止力となりえたかどうかを考察するにあたっては、当
時のアルゼンチン政府がそもそもこの艦隊の存在を知り得ていたかどうかが鍵
9
8
2年 3月 3
0日にキャ
となる。この派遣は、当時は秘密裏になされたものであり、 1
ラハンが議会における討議のなかで初めて公にした (911。キャラハンは、「し、く
ヘ
らかの情報がアルゼ、ンチン軍に入っていた可能性がある J と述べているが (9
オーウェンはアルゼンチン側は艦隊の存在を知らなかったと考えている (931。
したがって、この機動部隊がアルゼンチンに対する抑止力として機能していた
国 際 安 全 保 障 第4
5巻第 1号
1
1
1
と断言することはできない。
ただし、キャラハン政権が機動部隊派遣という政治的決断を行ったことと、
それによりアルゼンチンとの交渉にあたりイギリス側にオプションが lつ増え
たということは、事実であろう。また、機動部隊の構成をめぐって軍事的・外
交的要請の吻合が図られたほか、交戦規定や封鎖海域についての法的議論が進
展したことは、ひとつの成果と見なして良いだろう。
なお、本稿で論じたイギリスの防衛政策において、興味深いのはそれぞれの
アクターの立場である。砕氷哨戒艇エンデュランスをめぐって、一貫して撤
退を主張したのは国防省であり、駐留継続を主張したのは外務省であった例。
一般的なイメージとしては、国防省の方が軍事力の活用に積極的であり、外務
省は平和的手段を指向する傾向があるように思われる。しかし、本稿の分析で
明らかになったのは、国防省は費用がかかり軍事的に意味をなさない規模・構
成の駐留に反対していたのに対し、外務省は政治的な配慮、から駐留を希望して
いたということである。また、エンデュランス駐留と機動部隊の事前展開の両
方について、労働党政権は実施することを選択したが、保守党政権は実施しな
いことを選択した(刷。もともとイギリスの防衛政策は、表面的なレトリック
に関わらず実質的な面では超党性が見られるものの、当時は特に、労働党政権
が対外的な軍事的関与に積極的であったことについて、特筆しておく必要があ
ろう。
(しのざき
まさお
防衛省統合幕僚監部)
[付記]本稿の内容はすべて筆者個人の見解であり、所属組織の見解を示すもので
はない。
註
(
1
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.
マーガレット・サッチャー『サッチャ一回顧録ーダウニング街の日々(上)Jl石
塚雅彦訳、日本経済新聞社、 1
9
9
3年
、 218‑220頁。なお、引用に際しては必ずし
も邦訳書の訳文によらない場合がある。
(3) 佐々木雄太 r~鉄の女』の外交政策」佐々木雄太・木畑洋一編『イギリス外交史』
有斐閣、 2005年
、 214‑215頁
。
(
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7年 6月
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5
. このときの選挙結果は、保守党 397議席、労働党 209議席であった。一方で、
フォークランド紛争と 1
9
8
3年の総選挙の関連性を否定する見解もある。たとえ
ば、サンダース (DavidS
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) らは、 1983年の選挙結果は主に経済的要因によ
るものであり、フォークランド紛争における勝利は、保守党の支持率を最大でも
3%向上させたにとどまると主張する。 DavidS
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s,HughWard,DavidMarshand
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てフォークランド紛争に直接言及したのは保守党の候補者のうち 3分の l
以下にと
どまり、フォークランド要因が影響したと認める有権者もほとんどいないとの指
摘もある。 R
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(
5
) フォークランド諸島は植民地 (
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) と呼称され、女王を代理する統治者と
して総督 (Govemor) が置かれていた。
(
6
) 木畑洋一『支配の代償 英帝国の崩壊と「帝国意識J
j]東京大学出版会、 1987年
、
1
6頁
。
(
7
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.なお、イ
ギリスにおける公式史 (
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) の起源は、 1919年の戦史編纂にさかの
ぼる。公式史は、当該分野の権威ある研究者が公文書に自由なアクセスを許され
た上で著すものである。
(
8
) 1982年 7月 6目、サッチャーの指示によりフランクス (
B
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) を委員長
とする諮問委員会が設置され、フォークランド問題について検討した上で翌年
に提出された報告書を指す。 Fa
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(
13
) 防衛研究所戦史研究センター『フォークランド戦争史』防衛省防衛研究所、
2014年
。
(
14
) 2015年4月l日において、 1
,
010名の将兵が駐留している。 M
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町 ofDefence
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) 両島ともフォークランド諸島の南東に位置するイギリス領である。
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国際安全保障
第4
5巻 第 1号
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TNA.
(
31)主権をアルゼンチン側に引き渡したうえで、行政権をイギリス側に一定期間
再委譲(リースパック)させるという方式である。
(
3
2
) 防衛・対外政策委員会は、内閣の下に常設され、首相、外相、蔵相、枢密院議長、
国防相などから構成される機関であり、防衛政策と対外政策の主要な決定の場で
目
ある。
(
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3
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(
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6
) フォークランド島民の大部分はイギリス系住民であり、アルゼンチンへの主
権移管に強く反対していた。
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5日と 2
1日に防衛・対外政策委員会においてフォークランド近海への機
(
5
2
) 1
1月 1
動部隊派遣について検討した形跡があるが、イギリス公文書館において当該議事
/
16
7に収録)は全文が 4
0年保存とされており、いまだ非公開である。
録 (CABI48
ただし、他のファイルにおける記載から、当該委員会における議論の内容を窺い
知ることはできる。
(
5
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5
6
) アルゼンチン海軍は広範な警戒監視能力を有していると評価されていた。
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) 一方、オールドフィールドはオーウェンが機動部隊の秘匿性を重視していた
ことに配慮し、キャラハンの期待どおりには行動しなかったと見る説もある。
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エンデュランスであったことを考えると、その軍事的役割を低く評価するのは妥
当ではない。 TELNO1
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0年代後半には外相、国防相とも頻繁に交代したことから、こうした立場
は閣僚の個人的見解というよりも各省の組織的見解と見なすべきであろう。
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2年 3月において、保守党政権が機動部隊の事前展開をすることが現実的な
選択肢として存在していたかどうかについては異論もあるが、ここでは結果のみ
に着目する。
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